フランスのアンボワーズの街にクロ・リュセという名前の館がある。はるか昔、そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチが住んでいた。
アンボワーズの城からはクロ・リュセまでは徒歩10分。わたしは走った。閉館間際の館へ向かって。途中で道が分からなくなり、走りながらすれ違う観光客に叫んだ。「クロ・リュセ?」フランス語が喋れないから大声でそう言った。すれ違った人は素晴らしい反射神経で、振り返って自分が来た方の道を指さす。道は間違っていなかった。めるし、といってわたしはまた走り続ける。
――幸いなことに入館締め切りまで30分ほどの時間を残して、クロ・リュセの館に到着した。茶色のレンガ造りの小ぶりな館。白い隅石が建物のアクセント。庭も含めてこじんまりとした佇まい。細長い、針のような糸杉の木が庭の番人のように立っている。
内部は簡素な設えだった。当時のものであろう寝台や椅子。寝台は天蓋つきの重量感のあるもの。この寝台でレオナルドが息を引き取った――。絵に描かれたように、その時はフランス王が看取ったのだろうか。城に近いこの館をレオナルドに与え、対話を愉しみ、父のように遇したと伝えられたフランソワ1世が。レオナルドは亡くなる前の数年、この館で穏やかに過ごしたはずだ。王の近しい人として穏やかに。
それでも、窓から庭を見下ろすレオナルドの目には、失望があったのかもしれない。少なくとも希望にあふれた日々ではなかった。出来たことの何倍もの種が身のうちにはあったのに、それを実現できる時間はもうない。彼はその創造力の巨大さに対して不遇であった。
館の地下には小さな展示室があって、そこにはレオナルドのアイディアによる機械の模型がいくつか飾られていた。戦車。ガトリング砲。折り畳み式の橋。都市計画の部分的な模型。他に誰もいない部屋を、足音を立てないようにして歩き回る。
どれも作るのに容易な(つまりはお金がかからない)小規模なものだったけれど、だからこそガラスの覆いもなく、近くからじっくり眺めることが出来る。動力の伝わり方を目で追う。いくつかの模型には執念深いほどたくさんの歯車が使われている。レオナルドは歯車をよく知っていた。そのアイディアの斬新さから、未来からのタイムトラベラーだというフィクションも作られることもあるが、何よりもこの人は歯車の機能を熟知した人だったのだ。
展示の順路の最後にレオナルドの一生を説明する映像作品があった。椅子に座り、フランス語で語られるその説明を聞いているうちに、眠くなった。走ってここまで来たこと、その前にもあちこち観光して回っていること。フランス語の響きの良さと薄暗い部屋の佇まいが相まってぐっすり眠ってしまう。
物音で目が覚めて辺りを見回すと、係の人が上映室に入って来る音。時計を見るともう閉館時間を30分も過ぎている。慌てて立ち上がり、寝起きでクラクラしながら「めるし」と小さく言って出口へと急ぐ。
外国では閉館時間前でも追い出すように帰り支度を始めると聞いたことがあるけれど、この人はわたしに30分の猶予をくれたんだ。居眠りしているとは知らなかったかもしれないが。30分の残業に小さく感謝。
振り返った庭には糸杉の細長い姿。館を見上げると、窓からはるか昔の年老いた人がこちらを見下ろしている。その目はやはり、淋しかった。